リーダー不要論
2013/1/28 の記事
外部サイトからの引用なのですべて引用記法にしました 2019/8/12
25日のOB会にて、SFC創業メンバーのキーパーソンで総合政策学部の二代目学部長を務めた井関利明さんの、SFC創業に至る物語を、じっくり聞いた。
僕は第一志望でSFCだったし、SFCが鳴り物入りで創設され、まだ卒業生も輩出していなかった時代の3期生だから、アツい思いで入学した世代。思い入れも強い。
そのSFCがイマイチ結果を出せていないと私は感じており、その原因は何なのか、先進的であるはずのSFCがダメなら日本の大学は全て絶望的で国としてもヤバいだろう、というのが私の関心事であった。
私の仮説は、リーダー教育の欠落と、教員側のぬるま湯体質を温存した結果、活躍する人材を生み出せていないのでは、というもので、それは、井関さんの話を聞いて、より強まった。もちろんSFCは大学改革の先導者であり、他大学は概して、レジャーランドに過ぎない。私の分析はすべて「当初の期待値に比べて」という意味である。
◇卒業生の活躍
まず、教育機関としての大学は、卒業生の活躍度合によってしか評価されえない。それ以外に、どれだけ理念がすばらしかろうが、国や社会から見たら、自己満足にすぎない。
1~5期生の人たちは、もうみんな35歳以上で、キャリアという点では結果が出ていなければいけない年齢。客観的に、シビアに評価できる時期にきてしまっている。卒業生の活躍という点で見ると、左記のとおりだ。
国会議員は、世襲以外の実力では1人も出ていない(小沢塾幹事で選挙活動ゼロで名簿当選した相原さんを例外として)。他大では41歳で大臣になっている者(細野氏)もいるのに、なりそうな者すらいないのだ。
官僚でも40歳前後は課長補佐クラスで第一線でバリバリ働いてる年代だが、特段、他大学出身者と異なる動きをしている人の話は聞かないし、ドロップアウトして何か特異な取り組みを始めたという話も聞かない。
ベンチャーで上場まで行ったのは4~5期生の3社だけ(クックバッド、ネットプライス、フリービット)。1期~3期ではゼロだ。これは他大学と比べ、多くも少なくもない。twitter,facebook,gree, Lineといろんなサービスが世間でブレイクするなか、SFC卒業生は、それらにほとんど絡んでいない。日本発の独自サービスが世界標準に名乗りをあげられていないのは、最先端の環境を有したSFC卒業生が創れていない以上、当然の結果ともいえる。
NPOや社会起業家系では、9~10期生前後に何人か有名な人が集中しており、これは「問題を発見し、解決する」というSFCの理念をモロに体現しており、素晴らしい成果といえる。マザーハウス山口さん、フローレンス駒崎さんなどだ。
ようは、総じて日本社会に大きなインパクトを与えるには至っておらず、良いスパイスを与えてはいるが、社会が抱える「問題を発見して解決する」勢力に、当初のもくろみに比して、なりえていない、というのが、事実認定としては正しかろう。
こうしたなか、特に1期生~3期生の不振が目立つ。入試の倍率も今の2倍くらい高く、一般入試の応募者は両学部とも6千人~9千人もいた。優秀で志の高い人も多かったと思うし、教員側も創業メンバーばかりで、ダイレクトに理念を共有し伝授できる環境にあったわけだが、どうして結果が出ていないのか?
私はもっと出てくると思っていたので、正直、不満である。
◇リーダー不要論と「目標はいらない」
今となっては、問題を解決する上でリーダーは不可欠であり、そこに議論の余地はないと考えているのだが、どうしてなかったのか。井関さんの講演を聞いて、その理由が、やっとわかった。
そもそも、SFCには「問題を発見して解決する」という理念は明確だったが、リーダーを育成するという理念は存在していなかった。実際、SFCのカリキュラムには、リーダーシップのリの字もなく、座学ですらその重要性を学ぶ機会はなかった。
なんと、「リーダー不要論」をとくとくと話し出したのである。井関さんによると、リーダーとフォロワーという関係は古い概念であり、これからの社会で必要なのは、カタリスト(触媒)やコーディネーターだ、というのだ。
SFCが目指したのがリーダーの育成ではなく、カタリストであったというのは、なるほど、と思う話だった。なぜなら、それでSFCの初期の卒業生に「ナンバー2&名参謀」が多いことを説明できるからだ。楽天創業時のナンバー2~4やサイバーエージェントの創業時ナンバー2はSFC卒業生である。ゴスペラーズの北山さん(3期生)もリーダーではない。
さらに井関さんは、「目標はいらない」とも断言した。「目標があると、それ以上はやらなくなり、予測不可能な成長を阻害するため」だという。そして、ノーベル賞を受賞した山中教授を例に、環境の相互作用で成功に導かれていくものなのだ、目標があったわけではないのだ、といった話をしていた。
これで、SFC初期の卒業生が現実世界でリーダーとして活躍していない理由を理解できた。そのような視点で学生を採用もしていなかったし、そのような教育もしていなかった、というわけだ。
◇問題を解決するのはリーダーである
「リーダー不要論&目標はいらない」は、現代思想論のような学問の世界でなら、概念的には理解できる。だが、それは実学を重視し、問題を発見して解決するというSFCの理念を体現するうえで、明らかにバッティングするどころか、有害であることは明らかだろう。問題を解決するのは、間違いなく高い目標を掲げたリーダーなのだから。
新しい大学を作るなら、どの分野にどういう人材を、何年後に何人輩出したいのか、という具体的な目標があるべきだと思う。たとえば、20年後に国会議員10人、地方議員30人、ベンチャー上場社長20人、ベストセラー作家10人、30年後までにノーベル賞受賞者輩出、などである。
目標があって、目標にコミットしてはじめて、どんな学生を採用するかの方針が決まり、教育内容のカリキュラムが決まるわけで、これは民間の組織運営としては当然のことである。カルロス・ゴーンのいう、コミットメント経営だ。民間で働いたことがない学者には、そのあたりが理解できないのだと思う。
卒業生に結果が出ていないことについては、「そんな厳しいことを言わせないでよ」とのお答えで、井関さんも僕も、認識は同じだった。ただ、その原因について、私はリーダー教育や目標設定の欠落が問題だと思うのに対して、井関さんはそうは考えていない、というのが違いである。
◇教授側に競争がない
井関さんには、もう1つ質問をした。成果が出ていない理由をリーダー教育以外に挙げると、SFCが教員サイドの既得権を改革せず温存しすぎたことが問題だと思っている、という件である。
去年、准教授や教授を匿名を条件にインタビュー取材したが、海外でテニュアといわれる終身教授の権利が、SFCだと30代で専任講師や准教授になった段階で持ててしまい、65歳まで特段、顕著な教育・研究成果がなくても、雇用が安泰なのだ。これはひどい。「ぬるま湯」である。
去年、竹中教授が講演で言っていたのは、日本の大学の問題は、教員の間で競争がなさすぎること、だという。教員が競争してないのに、そこで学んだ学生が社会に出て厳しい競争で勝てるわけないのである。
これは私もベンチャーやってるし、物書きをやってるから実感しているところであるが、民間は成果がなければ消える厳しさがある。だがSFCは、教員の雇用制度に、何も手をつけなかった。
なかでも、少なくとも授業評価の結果を教員の査定に結びつければよかったのに、それさえもやらなかった。高橋潤次郎さんが慶應病院の病床から説得して、やっと形式的な授業評価が導入されただけ。これは教員の査定とは未だに無関係なので、形骸化している、というのが学生と教員の共通認識である。
いったい、誰が抵抗勢力だったのか?井関さんの答えは、「当時、どこも授業評価を導入している大学はなかったという環境下で、導入することだけでも、大変なことだった。だって、評価シートに、本当に心ないことを書いてくる学生がいるんですよ…」。
まあそんなところだろうが、日本の大学がグローバルで評価される存在になりえないのは、このように教員の既得権を優先して、ダメな授業や教員が淘汰されず、授業の質が上がらないことに原因があると思う。
学生と先生の関係を、福沢諭吉の理念である「半教半学」だと言うなら、相互評価は必須であるはずだった。学生の評価能力を過少評価し、怯え、既得権を守った結果、大学の教員サイドの「ぬるま湯」はSFCにおいてさえ、改革されなかった。
◇学際的な知識の融合だけでは問題は解決しない
リーダー教育を掲げ、そういった素質を持った人材を高校から集め、カリキュラムにリーダーシップ教育を導入し、教員側とも相互に評価しあっていくような大学であれば、「問題を発見し解決する」という理念を体現したリーダーを、SFCは、もっと生み出せたはずである。
理念や知識だけはすばらしかった民主党政権が何もできなかった事実をみれば明らかなように、実行力がないと、リーダーシップがないと、現実社会の問題を発見して解決するには至らない。
学際的な知識の融合だけでは、社会の問題を発見し解決するリーダーを輩出できないのだ、ということを、SFCの20年は教えてくれたのである。